2016年




ーーー2/2−−− 薪が可愛い


 夜、居室の薪ストーブの炎が赤々と燃えているのを見て、家内がポツリと言った 「最近は、薪が可愛くて、かわいくて」

 家内と二人だけの生活になり、暮らしの場は薪ストーブがある大部屋に移った。その部屋で過ごす時間が長くなったので、薪の消費量が増えた。いつからか、屋外の薪小屋からストーブの脇まで薪を運ぶ作業は、家内の役目となった。いくつかある薪小屋の薪を、乾燥度合いに応じて積み替えたりもする。

 昨秋は、山へ薪を取りに行った(許可された山である、念のため)。その内の何度かは、家内も同行した。丸太を斜面に転がし、枝を引っ張り、軽トラに積む作業をした。それを持ち帰り、私が玉切りをし、家内が電動薪割り機で割る。それを薪小屋に積む。時には地面に並べて、陽に当てて表面を乾かすというような、細かい作業もする(右画像)。

 そんなプロセスを経て保管をし、数ヶ月かけて乾燥させ、ようやく燃料として使えるようになる。作業に携わった者が、薪に対して愛着を感じても無理は無い。

 いくら思いが込められたとは言え、燃やしてしまう代物を可愛いと感じるのは、いささか妙ではある。果樹農家が、手塩に掛けて育てた果実を「愛おしい」などと言いながら、食べたり売ったりするのに似ていようか。畜産業者も、可愛いかわいいと言いながら、牛や豚を屠殺場に送り出す。そういえば、以前、ある小学校で生徒が豚を育て、最後にそれを食べたという事で問題になったケースがあった。可愛がって育てた豚の肉を、生徒たちは泣きながら食べたと言う。教師は、生きることの不条理を教えたかったそうである。

 話がそれたが、一つ指摘できることがある。灯油を購入して、石油ストーブで燃やして暖を取る。便利なものではあるが、灯油に愛着を感じる人がいるだろうか?






ーーーー2/9−−− 指導者の目線


 
イタリアだったかスペインだったか忘れたが、街角の風景を紹介する番組の中でのこと。建物の壁面に本を読む少年の像があり、道路を挟んだ向かい側の壁には教師の像があった。両者の位置関係は、明らかに教師のほうが低かった。日本人のインタビュアーが「教師の方が低い位置にあるのはどうしてでしょう?」と聞くと、現地の人は「教師の仕事は、生徒を高いところへ上げることですから、これで良いのです」と言った。さらに「教師の役目は、生徒の能力を伸ばすための、言わばコンサルタントなのです」と続けた。

 そう言えば、ちょっと前だが、欧州の少年スポーツチームを取材した番組があった。練習中のコーチと選手の関係がとても親しげで、友人同士のように見えた。現地のコーチはこう言った「コーチは、選手の相談相手です。選手の悩みを聞き、一緒になって解決策を探すのも、大事な役目です。そのためには、普段から心を通わす関係が必要なのです」

 わが国の教育現場では、いまだに教師が生徒の上に君臨し、威張り、罵倒して従わせるという体質があると、知り合いの若い教師から聞いた事がある。また、少年スポーツの現場でも、コーチが試合中に、選手に向かって大声で罵詈雑言を浴びせかけ、その場にいた大人たちを気まずい雰囲気にさせたシーンを、何度も目撃したことがある。

 知識がある者、あるいは技術や技能を身につけている者が偉いという発想。それは当然と言ってしまえばそれまでだが、指導する立場の者が、持っている物を相手に伝えることができなければ、不毛である。弱い立場の者の目線まで降りて、気持ちを交わすことによって、物事は的確に伝えられる。それをできる人が、偉いのである。





ーーー2/16−−− 万年筆を改造


 万年筆を三本持っている。二本は自分で買ったもの、他の一本は父の遺品だが、生前何かの機会に私がプレゼントしたものである。いずれも信州へ越してきてから購入したものだから、それほど古いものでは無い。全て日本製である。

 会社勤めの頃は、モンブランを使っていた。キャップの先端の星型のマークが素敵で、それに惹かれて買ったのだが、インクが漏れたりして、あまり具合が良くなかった。書き心地も、特段優れてなかったように思う。日本製を使い始めたら、値段の割にはとても性能が良かった。これで十分といった印象を持っている。

 三本は、細字、中字、太字の三種類だが、正直言ってどれもほとんど使わない。仕事の書類にサインを書くのが普段の使い道で、その他は、たまに手紙を書くぐらいである。その役目も、ボールペンで代用することもある。つまり私の万年筆は三本とも、稀に訪れる出番を待ちつつ、デスクのペン立ての上に立ったままとなっている。

 こういう使い方で生じる問題が二点ある。一つ目は、書き出しのかすれである。長い間使っていないと、ペン先が乾いて詰まり、インクが出なくなる。かすれて字が書けないのである。これに対する対策は、以前はインクカートリッジを指で押して、ペン先にインクが行くようにした。その後、水道の蛇口に水を出し、そこにペン先を浸すことで湿らせ、詰まりを除去することを思いついた。近くに水道があるなら、この方法のほうが簡単であるし、インクで回りを汚す心配も無い。

 二つ目の問題点は、より深刻で、不快なものである。それは使わない間に、カートリッジの中のインクが蒸発して、無くなってしまう事である。厳密に言えば、インクの染料成分は蒸発せずに残っているはずだが、水分が蒸発して無くなれば使えない。カートリッジが空っぽになっている場合は、新しいカートリッジに替えるのだが、次回同じ万年筆を使うときに、また空になっていたりする。つまり、新しくチャージされたインクは、署名の三文字だけを書いた後、残りの99パーセント以上は使われないまま蒸発して消滅するというような事が起きる。それほど長い期間使わないという事でもあるのだが。

 これは、あまりにも無駄である。そこで何とかしようと思った。ネットで調べたら、カートリッジの代わりに、コンバーターという部品を取り付ければ、インク瓶から吸い上げられることが分かった。たいした金額ではない部品なので、取り寄せてみた。前の晩から、ペン先部分をぬるま湯に浸して、洗浄した。準備万端で、到着したコンバーターを取り付けた。同時に発注したインクの瓶にペン先を入れ、コンバーターの先端のノブを回すと、インクが吸い上がって入るのが見えた。父が使っていた万年筆で、ペン先が三本の中では一番高級な代物である。書き味はとても良い。

 カートリッジなど無かった時代は、万年筆は吸入式だった。コンバーターを装着すると、それと同じ仕組みになる。使用感が、なんとも懐かしい。この方式なら、万年筆の使用頻度に合わせて、少しだけインクをチャージしておけば良い。また、余ったインクを、瓶に戻すことも可能だ。さらに、水を吸い上げたり放出したりして、ペン先を洗浄することもできる。経年劣化でコンバーターの性能が低下したら、取り替えれば良い。その点では、元々吸い上げ式で作られた万年筆より有利である。

 これでインク代が節約できるようになるが、それはさておき、万年筆に対する愛着が、呼び戻されたような気がする。これからは、万年筆を使うことが増えるかも知れない。

 さて、残りの二本は、未使用のカートリッジがまだ残っているので、それらを使い切るまで、現状のままで行こう。




ーーー2/23−−− 通夜にて


 大学山岳部の先輩が亡くなられた。かねてより患っていた心臓疾患が悪化し、大事を取って入院した先で、あっけなく帰らぬ人となった。享年66歳。まことに惜しまれる逝去であった。

 氏と最後に会ったのは、数年前のOB会であった。私を見つけると傍に来て、熱心に病のことを話された。さかのぼる10年ほど前に、JRの駅で突然倒れたそうである。心肺停止状態になったが、救急車で運ばれ、緊急救命治療を受けて、奇跡的に蘇生した。その時初めて、元々心臓に欠陥があったことが知らされたとのこと。

 医者の説明によると、過去に高熱が何日も続く病にかかったことがあり、その時に心臓がダメージを受けたのだろうと。そうとは知らずに、本人はマラソンやトライアスロンなどという激しいスポーツを続けていた。その結果が、JRの駅での発作だったという。「心臓がおかしくなったのなら、その時点で医者が言ってくれれば良かったのに」と氏は言った。その一方で「こうしてみると、生きているだけでも幸せなことだと思う」とも言った。

 通夜に参列した。お坊様が読経をしたのだが、それがちょっと変わっていた。冒頭の数分間のお経が、現代語なのである。その後に続いたお経は、聞いていても意味が分からない、普通のものであったが。

 現代語の部分は、このような意味であった。「人の死は、大いなる光、永遠の中に入っていく現象である。死は誰にでも訪れる。死を悲しみばかりで捉えないで、偉大なものへの変化として受け止め、身をゆだねなさい。そして、残された者は、自らもその変化の時まで、日々をいつくしみながら、心穏かに、豊かな気持ちで生きるのです」

 式の最後にお坊様が説明をした。このお経は、チベット仏教のお経の一つで、死の前後に唱えられるものであり、それを現代語に訳したものであると。

 ともあれ、私はそのお経の内容に感銘を受けた。キリスト教と似たようなものを感じたからである。また、そのように分かり易い形でお経を読んでくれたお坊様に、感謝の念を抱いた。これまでお経というものは、有り難そうだけれど意味が分からないという印象しかなかった。この日のお経は、そのような固定観念を払拭してくれた。

 通夜が終わり、参列した山岳部OB5名は、同じ列車で帰路に着いた。乗り込んでボックス席に陣取ると、各人何の躊躇も無く、お土産の袋から清酒の小瓶を取り出して飲み始めた。そして思い出話に打ち興じた。礼服姿の初老の紳士たちが、列車の中で酒瓶片手に気炎を上げるのは、傍目にはいささか見苦しいものであったろうが、それは懐かしい山岳部スタイルであった。

  






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